アッティラ

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APR 2025

 

コンサート形式で演奏

序幕と三幕の抒情劇
音楽:ジュゼッペ・ヴェルディ
台本:テミストークレ・ソレーラとフランチェスコ・マリア・ピアーヴェ、ザカリアス・ヴェルナーの悲劇『アッティラ、フン族の王』に基づく

 

あらすじ

時と場所:紀元前5世紀の中頃。イタリアのアクイレイア、アドリア海に臨む海岸とローマ近郊。

 

前奏曲

前奏曲(ラルゴ、ハ短調、4分の4拍子)はわずか40小節であるが、アッティラの悲劇を簡潔に象徴する。

 

プロローグ(アクイレイアの広場)

イタリアに攻め込んだアッティラ率いるフン族の精鋭部隊は、アドリア海を望むアクレイアを壊滅させるかたちで征服することに成功する。アッティラのところにアクイレイア人の女戦士たちが部下のウルディーノに連れられてくる。アッティラはアクイレイア人を皆殺しにせよという指示に従わなかったことを咎めるが、ウルディーノは王への貢物であると答える。一人の女戦士オダベッラは「それは祖国への愛のため」と昂然として答え、これに感心したアティラは何か望みのものを与えるという。彼女は自分の剣を返して欲しいと答えると、代わりにアッティラは自分の剣を与える。オダベッラはいつか殺された父の仇を果たそうと決意する。

 

オダベッラたちが去ったあと、アッティラはローマの使者エツィオを呼びつける。やって来たエツィオは人々を退けてから、アッティラと二人だけで話し合い、密約を持ちかける。もし、東西ローマが弱体化した際、アッティラが全ヨーロッパを支配する代わりに、イタリアを自分にくれるのなら、アッティラと手を結んでも良いという申し入れを持ちかける。それを聞いたアッティラは裏切り行為だと怒り、「そのような堕落した考えが起こる国は滅亡して当然だ」と言い放つ。拒否されたうえ憤然とするエツィオはその場から出て行く。

 

第2場はアドリア海の干潟の中に浮かぶ泥地の小さな島。嵐の中、とある粗末な小屋に何人かの修行僧が神に祈りを捧げて暮らしている。嵐が止み、空が明るくなった時、フォレストと共にアクイレイアから逃げてきた人々の小舟が次々と到着する。フォレストは恋人のオダベッラの身を案じつつその苦悩を歌う(カヴァティーナ『彼女は野蛮人の手中に』)。フォレストと人々は、祖国に勝利が訪れることを信じて共に誓う。

 

第1幕(2場)

第1場 アッティラの陣営に近い森の中

プロローグから数週間が経ったある夜の森の中、オダベッラは恋人フォレストと再会する。フォレストはオダベッラがアッティラの愛妾になったと思い込み、怒りを露わにするが、オダベッラはアッティラにわざと媚を売っているのは祖国と父の復讐の機会を狙っているためであると必死に弁明する。フォレストの怒りは沈んで和解し、熱い抱擁に浸る。

 

第2場 天幕の中

ある晩に横たえていたアッティラは、夢に魘されて突然飛び起きる。夢の中で一人の老人が「お前は神の土地ローマに踏み入ることは許されない」と告げられた事を底知れぬ恐怖を抱く。我に戻ったアッティラは、気を取り直してローマを征服する決意を固める。部下や神官たちを招集して出陣の命令を下すが、白衣の老人レオーネを先頭に、女たちや子供らの民衆が平和を祈りながら行進する。レオーネが、先に夢に出てきた老人と同じ言葉を口にするのを聞いたアッティラは恐れ慄いて戦意を喪失し、その場で跪く。

行列の中にいたフォレスト、レオーネとオダベッラたちはこの姿を目撃し、祖国の勝利を改めて確信する。

 

第2幕(2場)

第1場 エツィオの陣営

アッティラとの休戦協定を結んだローマ皇帝ヴァレンティニアンの撤収命令を読みつつ、エツィオは不満と怒りを押さえつけられないでいた。そこに兵士らに導かれて入って来たアッティラの奴隷たちが、エツィオを招待したいというアッティラの伝言を持ってくる。使者の中に紛れていたフォレストは人目を偲んで、エツィオにアッティラへの復讐の計画を打ち明け、賛同を得る。エツィオは復讐を決意する(一同の退場の後、エツィオは『わが運命の賽は投げられた』を勇壮に歌い上げる)。

 

第2場 アッティラの陣営の祝宴の場

華やかな前奏の後、祝宴の場でエツィオがウルディーノに導かれて登場し、丁重な歓迎を受ける。ドルイッド教の神官らがアッティラに近づいて身の危険を警告する。しかしアッティラは平然な態度で気に止めなかった。その時突然の嵐で辺りが真っ暗になると、一同が慄いている隙にフォレストはオダベッラの手をとる。一方でエツィオはアティッラに同盟を提案するが再び拒否される。

 

ようやく嵐が去り、一面が明るくなると、アティッラは気を取り直して乾杯しようとする。その瞬間、オダベッラがその杯には毒が入っていると叫ぶ。激怒するアッティラの前にフォレストが出て来て、「自らがやったことだ」とフォレストの毅然とした態度に、アッティラは剣を振り下すことが出来ないでいた。オダベッラはアッティラに自分が代わりに裏切り者のフォレストを処罰しようと進言する。アッティラはオダベッラの勇気ある行動に喜び、彼女を王妃に迎えようと宣言する。フィナーレでは3人がそれぞれ復讐の決意をしながら終わりを迎える。

 

第3幕 アッティラの陣営に近い森の中

第1幕第1場と同じ場所。アッティラとオダベッラの婚礼の日の朝。オダベッラが再び裏切ったことに怒りに堪えるフォレストはウルディーノと待ち合わせて、アッティラの天幕を襲撃しようと待機している。やがて式の最中に、婚礼の喜びの合唱が聞こえるや、フォレストの怒りは頂点に達する。そこにオダベッラが天幕から飛び出し、フォレストに対して必死に弁明するも、一向に信じようとしないフォレスト。その背後に苛立つエツィオ。そこへ彼女を追ってきたアッティラは3人が一緒にいるのを見て、裏切り者を罵り激昂する。その背後(舞台裏)からローマ軍の鬨の声が聞こえ、今や復讐の時が来たと悟り、フォレストを先に越して、オダベッラは短剣でアッティラを刺し殺して父の仇を取る。不意を突かれたアッティラはその場で息絶える。勝利の凱歌のうちに幕が下りる。

プログラムとキャスト

イタリア語で上演、イタリア語と英語の字幕付き
上演時間:約2時間、休憩あり

 

指揮者 | ディエゴ・チェレッタ

 

キャスト
アッティラ、フン族の王 | イルダール・アブドラザコフ
エツィオ、ローマの将軍 | エルネスト・ペッティ
オダベッラ、アクイレイアの支配者の娘 | ソンドラ・ラドヴァノフスキー
フォレス、アクイレイアの騎士 | ルチアーノ・ガンチ
ウルディーノ、若いブルトン人、アッティラの奴隷 | フランチェスコ・ドメニコ・ドート #
レオーネ、老いたローマ人 | セバスティà・セッラ #

 

#サン・カルロ劇場アカデミー

 

サン・カルロ劇場管弦楽団と合唱団
合唱指揮者 | ファブリツィオ・カッシ

 

サン・カルロ劇場制作

サン・カルロ劇場 ナポリ

 

 

サン・カルロ劇場はイタリア・ナポリにある歌劇場で、劇場としてはヨーロッパで現役最古のものである。資金不足のため1874年-1875年のシーズンが中止された以外、定期公演が中止されたことがない点でも特筆される。

サン・カルロ劇場は、ナポリに劇場があることを望んだブルボン朝ナポリ王国の初代王カルロ によって建造された。開場は1737年11月4日、演目はピエトロ・メタスタージオ台本、ドメニコ・サッロ音楽のオペラAchille in Sciroであった。この時サッロはオーケストラの指揮も行い、幕間にはグロッサテスタの2つのバレエも演じられた。この劇場はその建築、金装飾、および豪華壮麗な青色(ブルボン家の色であった)の布張装飾で有名となった。

1816年2月12日、サン・カルロ劇場は火事により焼失するが、両シチリア王フェルディナンド1世の命により僅か10か月にして再建される。現在の建築はこの再建建築と基本的には同一であり、変化はヴェルディの提案したオーケストラ・ピットの設置(1872年)、電気照明の導入および中央シャンデリアの撤廃(1890年)、入口ロビー並びに楽屋棟の建築、に限られている。

1817年1月12日、再建された劇場はマイールの「パルテーノペの夢」(Il sogno di Partenope)で再オープンする。スタンダールはこの公演の2夜目を聴いており「ヨーロッパのどこにも、この劇場に比べ得るどころか、この劇場の素晴らしさの足許に及ぶところも存在しない。ここは人の目を眩惑し、ここは人の魂を狂喜させる」と書き記している。

1815年から1822年まで、ロッシーニはこのサン・カルロ劇場を含めたナポリ王国全ての王立オペラ劇場の劇場付作曲家・兼音楽監督であり、「オテロ」「湖上の美人」を含む9つのオペラがこの時期書かれた。

ジュゼッペ・ヴェルディもまたこの劇場と縁深い一人である。必ずしも彼の傑作とは言いがたいが、「アルツィラ」および「ルイザ・ミラー」はサン・カルロ劇場のために書かれた作品である。「仮面舞踏会」も本来はこの劇場のためのオペラだったが、スウェーデン国王が暗殺されるという筋書自体が王国であるナポリでは検閲で不許可とされ、舞台をアメリカ・ボストンに、初演地もローマに変更しての公演となった。

20世紀に入って、サン・カルロは革新的な支配人アウグスト・ラグーナを迎える。彼は1920年からの10シーズンをすべてワーグナー作品で開幕するという、当時のイタリアでは異例のプログラムを組み、またリッカルド・ザンドナーイ作曲、ガブリエーレ・ダンヌンツィオ脚本のオペラ「フランチェスカ・ダ・リミニ」などの新作オペラの初演にも熱心だった。

第二次世界大戦で大きな損害がなかったことも幸いして、サン・カルロ劇場は戦後いち早くイギリスへの引越公演(1946年)を行うなど、オペラ劇場としての機能を回復した。その革新的伝統は戦後も継続し、たとえばアルバン・ベルクの「ヴォツェック」のイタリア初演(1949年、カール・ベーム指揮)などが行われている。

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