アッティラ

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MAY 2025

アッティラ

 

作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ

原作:ツァハリアス・ヴェルナーの戯曲「フン族の王アッティラ」

台本:テミスト-クレ・ソレーラ

初演:1846年3月17日、ヴェネツィア、フェニーチェ劇場

 

 

あらすじ

 

時と場所:紀元前5世紀の中頃。イタリアのアクイレイア、アドリア海に臨む海岸とローマ近郊。

 

前奏曲

アッティラの悲劇を簡潔に象徴する。

 

プロローグ:アクイレイアの広場

イタリアに攻め込んだアッティラ率いるフン族の精鋭部隊は、アドリア海を望むアクレイアを壊滅させるかたちで征服することに成功する。アッティラのところにアクイレイア人の女戦士たちが部下のウルディーノに連れられてくる。アッティラはアクイレイア人を皆殺しにせよという指示に従わなかったことを咎めるが、ウルディーノは王への貢物であると答える。一人の女戦士オダベッラは「それは祖国への愛のため」と昂然として答え、これに感心したアティラは何か望みのものを与えるという。彼女は自分の剣を返して欲しいと答えると、代わりにアッティラは自分の剣を与える。オダベッラはいつか殺された父の仇を果たそうと決意する。

オダベッラたちが去ったあと、アッティラはローマの使者エツィオを呼びつける。やって来たエツィオは人々を退けてから、アッティラと二人だけで話し合い、密約を持ちかける。もし、東西ローマが弱体化した際、アッティラが全ヨーロッパを支配する代わりに、イタリアを自分にくれるのなら、アッティラと手を結んでも良いという申し入れを持ちかける。それを聞いたアッティラは裏切り行為だと怒り、「そのような堕落した考えが起こる国は滅亡して当然だ」と言い放つ。拒否されたうえ憤然とするエツィオはその場から出て行く。

第2場:アドリア海の干潟の中に浮かぶ泥地の小さな島

嵐の中、とある粗末な小屋に何人かの修行僧が神に祈りを捧げて暮らしている。嵐が止み、空が明るくなった時、フォレストと共にアクイレイアから逃げてきた人々の小舟が次々と到着する。フォレストは恋人のオダベッラの身を案じつつその苦悩を歌う(カヴァティーナ『彼女は野蛮人の手中に』)。フォレストと人々は、祖国に勝利が訪れることを信じて共に誓う。

 

第1幕(2場)

第1場 :アッティラの陣営に近い森の中

プロローグから数週間が経ったある夜の森の中、オダベッラは恋人フォレストと再会する。フォレストはオダベッラがアッティラの愛妾になったと思い込み、怒りを露わにするが、オダベッラはアッティラにわざと媚を売っているのは祖国と父の復讐の機会を狙っているためであると必死に弁明する。フォレストの怒りは沈んで和解し、熱い抱擁に浸る。

第2場:天幕の中

ある晩に横たえていたアッティラは、夢に魘されて突然飛び起きる。夢の中で一人の老人が「お前は神の土地ローマに踏み入ることは許されない」と告げられた事を底知れぬ恐怖を抱く。我に戻ったアッティラは、気を取り直してローマを征服する決意を固める。部下や神官たちを招集して出陣の命令を下すが、白衣の老人レオーネを先頭に、女たちや子供らの民衆が平和を祈りながら行進する。レオーネが、先に夢に出てきた老人と同じ言葉を口にするのを聞いたアッティラは恐れ慄いて戦意を喪失し、その場で跪く。

行列の中にいたフォレスト、レオーネとオダベッラたちはこの姿を目撃し、祖国の勝利を改めて確信する。

 

第2幕(2場)

第1場:エツィオの陣営

アッティラとの休戦協定を結んだローマ皇帝ヴァレンティニアンの撤収命令を読みつつ、エツィオは不満と怒りを押さえつけられないでいた。そこに兵士らに導かれて入って来たアッティラの奴隷たちが、エツィオを招待したいというアッティラの伝言を持ってくる。使者の中に紛れていたフォレストは人目を偲んで、エツィオにアッティラへの復讐の計画を打ち明け、賛同を得る。エツィオは復讐を決意する(一同の退場の後、エツィオは『わが運命の賽は投げられた』を勇壮に歌い上げる)。

第2場:アッティラの陣営の祝宴の場

華やかな前奏の後、祝宴の場でエツィオがウルディーノに導かれて登場し、丁重な歓迎を受ける。ドルイッド教の神官らがアッティラに近づいて身の危険を警告する。しかしアッティラは平然な態度で気に止めなかった。その時突然の嵐で辺りが真っ暗になると、一同が慄いている隙にフォレストはオダベッラの手をとる。一方でエツィオはアティッラに同盟を提案するが再び拒否される。

ようやく嵐が去り、一面が明るくなると、アティッラは気を取り直して乾杯しようとする。その瞬間、オダベッラがその杯には毒が入っていると叫ぶ。激怒するアッティラの前にフォレストが出て来て、「自らがやったことだ」とフォレストの毅然とした態度に、アッティラは剣を振り下すことが出来ないでいた。オダベッラはアッティラに自分が代わりに裏切り者のフォレストを処罰しようと進言する。アッティラはオダベッラの勇気ある行動に喜び、彼女を王妃に迎えようと宣言する。フィナーレでは3人がそれぞれ復讐の決意をしながら終わりを迎える。

 

第3幕:アッティラの陣営に近い森の中

第1幕第1場と同じ場所。アッティラとオダベッラの婚礼の日の朝。オダベッラが再び裏切ったことに怒りに堪えるフォレストはウルディーノと待ち合わせて、アッティラの天幕を襲撃しようと待機している。やがて式の最中に、婚礼の喜びの合唱が聞こえるや、フォレストの怒りは頂点に達する。そこにオダベッラが天幕から飛び出し、フォレストに対して必死に弁明するも、一向に信じようとしないフォレスト。その背後に苛立つエツィオ。そこへ彼女を追ってきたアッティラは3人が一緒にいるのを見て、裏切り者を罵り激昂する。その背後(舞台裏)からローマ軍の鬨の声が聞こえ、今や復讐の時が来たと悟り、フォレストを先に越して、オダベッラは短剣でアッティラを刺し殺して父の仇を取る。不意を突かれたアッティラはその場で息絶える。勝利の凱歌のうちに幕が下りる。

プログラムとキャスト

ラ・フェニーチェ管弦楽団 & 合唱団
指揮者: セバスティアーノ・ロッリ
合唱指揮者: アルフォンソ・カイアーニ
演出: レオ・ムスカート

 

アッティラ: ミケーレ・ペルトゥージ
オダベッラ: アナスタシア・バルトリ
フォレスト: アンデカ・ゴロチャテギ

フェニーチェ劇場

 

フェニーチェ劇場(Teatro La Fenice)は、イタリア・ヴェネツィアにある歌劇場である。日本語でもしばしばラ・フェニーチェ(-座、あるいは-劇場)と表記される。開場は1792年5月16日。

イタリア語でfeniceは不死鳥を意味し(英語のphoenixに相当)、その名は1773年に火災で焼失したヴェネツィアの他の歌劇場の後継を自負して名付けられた。その後この劇場自体、1836年と1996年の2度にわたって火災により全焼したが、その都度再建がなされ、「不死鳥」の名にふさわしい歴史を誇る。

 

ヴェネツィアとオペラの関係は古い。1630年、モンテヴェルディの『略奪されたプロセルピーナ』Proserpina Rapitaがヴェネツィア総督モチェニーゴ・ダンドロの邸宅で行われた、とあるのがヴェネツィアの記録上最古のオペラ演奏である(同邸宅はその大部分が現存、ホテル・ダニエリとして利用されている)。17世紀には少なくとも16の歌劇場が競合するなど隆盛を極めていた。

 

サン・モイゼ劇場は1640年に開場、1818年まではオペラの定期公演が行われ、ヴィヴァルディやパイジエロなど18世紀のオペラ作曲家の新作が多くここで初演された。後にはオペラ・ブッファに特化した運営となった。ロッシーニのオペラ『婚約手形』La Cambiale di Matrimonio(1810年)や『ブルスキーノ氏』Il Signor Bruschino, ossia Il Figlio per azzardo(1813年)なども、当劇場の委嘱になる作品である。

サン・サルヴァトーレ劇場(後年1875年にゴルドーニ劇場と改称され現存)は1661年開場、ゴルドーニの戯曲の多くが演じられたことで有名だが、ここもまた18世紀から19世紀前半には有力なオペラ劇場であった。ジュディッタ・パスタがベッリーニ作曲『ノルマ』を演じた記録が残り、またヴェネツィアの劇場中最も早くガス灯による照明が行われた(1826年)。

 

サン・ジョヴァンニ・グリソストモ劇場はマルコ・ポーロの邸宅があったとされる一角に1687年に開場、フェニーチェ劇場の創建以前はヴェネツィアで最重要の歌劇場と考えられていた。この劇場はグリマーニ家という富豪の運営になる劇場のうちの一つであり、少なくともここヴェネツィアにあっては、入場料さえ払えば、身分に関係なく誰でもオペラを鑑賞できる最初の劇場となった。ヘンデル作曲『アグリッピナ』(1709年)は当劇場で初演された。1836年に当時の高名なソプラノ歌手、マリブランが28歳の若さで急逝したとき、前年に当劇場でベッリーニ作曲『夢遊病の女』La Sonnambulaを歌い大成功を収めたことを追憶するためマリブラン劇場と改称された。20世紀に入ってからは映画館に改装されたが、その後もしばしば小規模オペラの公演に利用され、また、後述の1997年からのフェニーチェ劇場焼失再建期間中は仮劇場の一つとして活用された。

 

グリマーニ家の歌劇場のうち、その内装の優美さによって18世紀後半にもっとも隆盛を誇ったのが1755年に創建のサン・ベネデット劇場だった。この劇場は席数1500の大規模なものであったが、1773年の火災で焼失する。劇場再建にあたって土地の所有者ヴェニエル家と劇場の運営者側との間に法的係争が発生、ヴェニエル家に有利の裁定が下った。その結果劇場運営者側は同地を去り、そこから徒歩10分足らずの近接地カンポ・サン・ファンティンに新劇場を建設することとなった。新劇場は火災(とそれに続く裁判)の困難に打ち克つという意味を込めて不死鳥=フェニーチェ劇場の名が付けられた(下記に詳述)。

 

なお、サン・ベネデット劇場は結局1787年にヴェニエル家によって単独再建がなされた(この際ヴェニエル劇場と改称された)。フェニーチェ劇場開場後の1813年に至っても有名なロッシーニ作曲『アルジェのイタリア女』Italiana in Algeriの初演がこのサン・ベネデット劇場で行われていることからみて、少なくとも一定期間はフェニーチェ劇場に伍する歌劇場としての地位を得ていたとみられる。なお、同劇場は1868年にロッシーニ劇場と再改称され、1925年からは映画館として使用されている。

 

輸送

 

水上バス
2行目:トロンケットから
リアルト橋、サンマルコとリドの方へ

ローマ広場やサンタ·ルチア駅から:ライン1またはライン2
リアルト橋、サンマルコとリドの方へ

停止します。リアルト橋、聖天使、聖サミュエルやサン·マルコ(ヴァッラレッソ)、ライン1を取る。
またはリアルト橋やサン·マルコ(ヴァッラレッソ)、ライン2を取る


マルコ·ポーロ空港からアリラグーナ公共交通サービス - リアルト橋やサン·マルコ(ヴァッラレッソ)にブルーラインにオレンジ色の線を取る

 

入り口

フェニーチェ劇場は、2つの入口があります。
- ステージドアは劇場スタッフと出演者のためであり、ドアマンによって有人されます。
- メインの入り口


エレベーター

ボックス、ギャラリーや家族の輪は、エレベーターを経由して到達することができます。

アクセス

劇場は特別なニーズのアクセシビリティに関してすべての法的規制に準拠しています。

Ufficio stampa Teatro La Fenice
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